2019年10月31日

【一度は飲みたい】シャトー・ラトゥール Chateau Latour 【5大シャトー】

【一度は飲みたい】シャトー・ラトゥール Chateau Latour 【5大シャトー】

あまりに有名過ぎて何を掲載したらいいんでしょうか

1331年10月18日、メドックの富豪ゴーセム・ド・カスティヨン(Gaucelme de Castillon)は、河口から300メートルのサン・ランベールの地に要塞を作る許可を与えられた。遅くとも1378年には農園も作られている。

現在のワイン農園のシンボルであるサン・ランベールの塔は、最初は14世紀後半に作られたものと考えられている。塔は名を変えながらも(La Tour en Saint-Mambert, Saint-Maubert)、要塞周辺の土地の名の由来となった。百年戦争時には、この要塞にフランス王に雇われたブルトン人の兵が入れられたが、3日間の包囲戦の末に敗れてイングランド軍に占領された。1453年のカスティヨンの戦いの際にイングランドの手から取り戻されたが、フランス王の軍隊により完全に破壊され、当初の塔は現存しない。

1620年代に再建された丸い塔(サン・ランベールの塔)は、実際はハト小屋だったと考えられているが、現在でもワイン農園の偉大なシンボルとなっている。200年を経た今も、この建物は当時の塔の建材を使って建設されたといわれている[1]

この周辺では14世紀からワインが作られはじめており、中でもラトゥールのワインは早くから認知され、16世紀にはモンテーニュのエッセイに登場している[5]。16世紀の終わり近く、周辺の小規模農園がド・ミュレ家により一つに集められた。この地は1670年にルイ14世の秘書を務めていたシャバンヌ家に買い取られ、結婚によって1678年、クロゼー家の所有に移った。1695年、アレクサンドル・ド・セギュール(Alexandre de Ségur)がマリー=テレーズ・ド・クロゼー(Marie-Thérèse de Clauzel)と結婚した際にラトゥールはセギュール家の所有となり、彼の死の直前の1716年にはシャトー・ラフィットもまた彼の所有となった。

1718年には彼の息子ニコラ・アレクサンドル・ド・セギュールがシャトー・ムートンとシャトー・カロン・セギュールをも手に入れ、素晴らしい品質のワインを生産するようになった。 ラトゥールの評判は18世紀初めには広く知れ渡り、イギリス等に向けた輸出市場においてもシャトー・マルゴーやシャトー・オー・ブリオン同様、確固たる地位を築いた。

1755年のニコラ・アレクサンドル・セギュールの死により、ワイン農園は4人の娘に分割相続され、そのうちの3人が1760年にラトゥールを継いだ。主人が不在の間、ラトゥールは管理人に委託され、往復書簡を通して完全な管理下に置かれた。ラフィットをお気に入りとしたアレクサンドル時代よりも多くの手入れを得て、ラトゥールはその世紀の後半に品質を向上させ、のちにはトーマス・ジェファーソンやフランスの大臣に気に入られ、1787年にはラ・トゥール・ド・セギュールは第1級ワイン畑に格付けされた。

フランス革命が始まると、資産は分割された。セギュール・カバナック伯爵はフランスを逃れ、彼の相続分は1794年に競売にかけられた。農園は幾つかに分割され、1841年まで所有者はばらばらなままだった。一族は地所が売りに出されるよう働きかけ、競売の結果、ネゴシアンのバートン、ゲティエール、ジョンストンが資本の20パーセントを所有するようになった。1842年民法組合シャトー・ラトゥールが設立され、一族が株主となった。

パリ万博前の1855年の格付けで、ラトゥールは4つの第1級ワインの一つに選ばれた。これによりラトゥールの評価はさらに高まり、その高値も確実なものとなった。 現在のシャトーは1864年に完成したものである。

ととんでもなく長い歴史のあるワインです。

お勧めポイント

  • 1度は飲んでおくべきワイン
  • 強烈な個性
  • 長期熟成された物は至高に届きうる

1本買ってセラーで保管しつつ、人生の節目に飲むのはいかがですか?

それにふさわしいワインであることは疑いのない1品です。